2026年07月27日
日本オリベットアッセンブリーと共に神学的な洞察から読み解く、ローマ人への手紙3章1〜8節の講解。人間の言い訳と偽善を打ち砕き、十字架に刻まれた神の変わらぬ真実と恵みの本質を明らかにします。
聖書本文 ローマ人への手紙 3章1〜8節(新改訳2017)
「それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼に何の益があるのですか。
あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委ねられました。
では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。
決してそんなことはありません。たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「それゆえ、あなたが告げるとき、あなたは正しくあられ、さばくとき、勝利を得られます」と書いてあるとおりです。
では、もし私たちの不義が神の義を明らかにするのなら、私たちはどのように言うべきでしょうか。私は人間的な言い方をしますが、御怒りを下す神は不義なのでしょうか。
決してそんなことはありません。もしそうなら、神はどのようにして世界をさばかれるのですか。
では、もし私の偽りによって神の真理がますます明らかにされて、神の栄光となるのなら、どうして私はなおも罪人としてさばかれるのですか。
「善をもたらすために悪を行おう」ということになりませんか。私たちがそう言っていると、ある者たちから中傷されています。そのように中傷する者たちが、さばきを受けるのは当然です。」
悲劇のキャンバスの奥底に流れる巨匠の真実
オーストリアの天才画家エゴン・シーレは、荒々しい線と型破りな人体描写を通して、人間の不安や欲望、そして魂の罪悪感を残酷なまでに率直に暴き出しました。彼の作品に描かれる人物たちは、外見がゆがみ、まるで自らの欠乏や不義を他者のせいにしようとするかのような危うい眼差しを投げかけています。しかし、その奇怪で痛切なキャンバスの奥底には、皮肉にも、人間存在に対する巨匠の深い憐れみと、生命の本質に対する身もだえするような苦悩が隠されています。
人間がどれほど自らの罪を正当化し、他者や創造主に責任を転嫁しようとしても、その背後におられる創造主の義と真実が損なわれることは一瞬たりともありません。使徒パウロがローマ人への手紙3章の冒頭で宣言した「断じてそんなことはない!」という雷鳴のような叫びは、自分の不義を隠すために神に責任を押し付けようとする人間の傲慢な詭弁を、粉々に打ち砕く崇高な神学的洞察にほかなりません。
私たちは人生で予期せぬ苦難や悲劇に直面したとき、「神がいるなら、なぜ悪人をそのままにしておくのか」「なぜ人間が罪を犯すのを放っておいたのか」という神義論(Theodicy)の問いを投げかけがちです。ユダヤ人たちもまた、自らの不信仰によって契約の祝福を失う危機に直面すると、反省するどころか「私たちが信じないからといって神の真実さが崩れるのなら、結局は神のご計画が失敗したことになるのではないか」という詭弁を並べ立てました。
現代を生きる数え切れないほど多くの人々もまた、自らの頑なさと不従順を創造主の責任にすり替え、神に対する隠された憎しみを抱きながら生きています。しかし聖書の黙想は、この出口のない言い訳ばかりが響く法廷において、「ただ神おひとりだけが完全であり真実であられ、人間のいかなる偽りも神の聖さを損なうことはできない」という事実を、私たちに厳粛に見つめさせるのです。
恵みを阻む言い訳の城壁を打ち崩して
人間の最も狡猾な性質は、自らの罪を神に転嫁することです。エデンの園でアダムが自らの堕落を「あなたが私のそばに置かれたこの女のせいです」と言い訳したように、人間は常に「神が罪を止めなかったのだから神にも責任がある」という邪悪な論理を展開します。さらには、「人間の不義が神の義をいっそう際立たせるのであれば、善を成すために悪を行うのは正しいことではないか」という恐ろしい欺瞞に陥ることさえあります。これは、恵みを罪の免罪符にしようとする宗教的な偽善であり、神の崇高な愛を徹底的に汚す忌むべき態度です。
イエス・キリストの恵みを知った者は、こうした言い訳の城壁をただちに打ち崩します。イスカリオテのユダの裏切りや人間の悪行が、神の栄光のためにやむを得ない「必要悪」であったわけでは決してありません。イエス様は最後の晩餐の席に至るまで、ユダに悔い改めの機会を与え、彼を最後まで愛し抜かれました。人間は一方的に神を捨てて自ら闇を選び取りましたが、神はその背きと悪さえも十字架の偉大な愛によって乗り越え、人類救済の善へと変えられたのです。
日本オリベットアッセンブリーが伝えようとする福音の核心は、いわれのない非難を浴びながらも、私たちのために十字架ですべての罪の重荷を負ってくださった、神の無条件の血潮の愛にあります。
心の板に刻まれる真の契約
ユダヤ人たちは、自分たちが神の言葉を託され、肉体に割礼を受けたという外面的な条件だけを誇り、自らを霊的な選民であると錯覚していました。しかし、心の変革を伴わない道徳的な高慢は、うつろな殻だけの宗教形式へと堕落するほかありません。使徒パウロは、肉の身を切り取る表面的な儀式が重要なのではなく、聖霊によって魂の深みに神の律法が刻まれる「心の割礼」こそが、完全な救いの条件であることを明らかにしました。
十字架の一度限りのいけにえによって、儀式や律法の条文という隔ての壁はことごとく崩れ去りました。そして、「ただ信仰によってのみ(Sola Fide)」「ただ恵みによってのみ(Sola Gratia)」救いに至る新しい契約の道において、聖なる宗教改革が成し遂げられたのです。
真の宣教と霊的な改革は、他者に向けていた非難の指を下ろし、自らの内なる腐敗を正直に見つめる悔い改めから始まります。日本オリベットアッセンブリーは、外に現れる肩書きや形式を誇る偽善を捨て、日々御言葉の鏡の前に立って自らの無力さを認める「絶対依存の信仰」を訴え続けます。真の信仰とは、ギリシャ哲学のような観念論に陥って神を無感情な操り手と誤解することではありません。人間の裏切りの中にあっても最後まで忍耐し、命を捧げ尽くされたキリストの御心を抱いて生きる、血の通った実践なのです。
天への梯子をつなぐ恵みの架け橋
私たちが神を誤解し、逆らい続けてきた偽りの人生から立ち返り、真理の御言葉と福音の深い世界へと足を踏み入れるとき、私たちの魂はそこで初めて自由を得ます。神は悪を計画されたり、人間を絶望へと追いやって苦しみを楽しまれるような方では決してありません。むしろ、兄弟たちに見捨てられた絶望の穴の中からヨセフを引き上げ、一つの民族全体を救う善へと変えられたように、私たちの砕かれた人生をもう一度立ち上がらせてくださる恵みの神なのです。
今や私たちは、むなしいこの世の誇りと偶像を捨て、ヤコブが決断したように、神との初めの愛が生きている「ベテルへと上って」いかなければなりません。途切れていた天と地を結ぶ梯子(はしご)を祈りによって再びつなぎ合わせ、神の真実な慈しみを世に宣べ伝える聖なる架け橋とならなければならないのです。
日本オリベットアッセンブリーは、日々心に燃える恵みの炎をもって世を照らし、いかなる詭弁の前でも「神こそ真実な方である」と大胆に告白する、忠実な主の民を立て続けてまいります。ただ神おひとりから来る真実の称賛を切に求めながら、恵みの深い住処(すみか)へと歩みを進める聖徒たちの人生の上に、神の限りない平安が豊かにありますよう、心よりお祈り申し上げます。
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