2026年08月31日
日本オリベットアッセンブリーとともに深く黙想する、ローマ人への手紙4章の講解。割礼と律法の行いを超え、ただ恵みと信仰によって義の衣を着せてくださる十字架の転嫁の愛と、真の自由の奥義を分かち合ってまいります。
御言葉本文 : ローマ人への手紙4章9~12節
死の衣を脱ぎ捨て、魂が新しい衣をまとう時
イギリスの画家ウィリアム・ホガース(William Hogarth)は、風刺画《当世風の結婚(Marriage A-la-Mode)》の連作を通して、18世紀の貴族社会に見られた見せかけと虚栄を鋭くえぐり出しました。そこに描かれた人物たちは、華やかに飾られた邸宅で暮らし、光り輝く絹の衣とさまざまな装身具で全身を飾っています。しかし、その魂は腐敗と虚無、罪の宣告という鎖に縛られ、やつれ果てていました。外見をどれほど華やかに飾っても、人間の内なる傷や罪と咎を覆い隠すことはできません。それどころか、その装いが魂を締めつける重い鎖にもなりうることを示した、絵画による冷ややかな告発でした。
今日、日本オリベットアッセンブリーが伝える福音のメッセージも、まさにこの一点から始まります。私たちは信仰の道を歩みながらも、しばしば、信仰を装うという罠に陥ってしまいます。使徒パウロがローマ人への手紙4章を通して投げかける鋭い問いは、現代を生きる私たちの心の奥深くに迫ってきます。
私たちが神の御前で義人と認められ、罪の赦しという救いにあずかったのは、果たして、私たちが行った宗教的な儀式や、人並み外れた功績のゆえなのでしょうか。それとも、資格のない者に無条件に注がれる、神の一方的な恩寵のゆえなのでしょうか。パウロは、当時のユダヤ人たちがあれほど誇っていた聖なるしるしである「割礼」を議論の俎上に載せ、人間の行いが持つ根本的な限界と、十字架の福音の本質を明らかにします。
聖なる誇りの殻を打ち砕く、恵みの論理
ユダヤ人たちにとって割礼とは、自らを異邦人と区別する最高の誇りであり、救いを保証する決定的なしるしでした。しかしパウロは、旧約の歴史をきわめて綿密にたどりながら、彼らの頑なな選民意識を根底から揺さぶります。信仰の父アブラハムが神によって義と認められたのは、彼が99歳で割礼を受けるよりもはるか以前、ハランを離れ、神の約束をありのままに信じた75歳のときのことでした。実に24年という気の遠くなるような歳月の間、アブラハムは無割礼のまま生きていましたが、神はすでにその信仰をご覧になり、彼を「義人」と宣言してくださったのです。
さらに、ユダヤ人たちが命に代えても守るべきものとしていた律法でさえ、アブラハムの出来事から430年も後になって、モーセを通して与えられたものでした。結局のところ、アブラハムが救いの父祖となったのは、律法や割礼という行いの報酬によるのではなく、ただ神の先立つ愛と恵みを心から受け入れた「信仰」のゆえだったのです。律法は、私たちが罪人であることを悟らせる鏡としての役割を果たすことはできても、魂を縛る罪の重荷を取り去る力までは持っていませんでした。
神が与えてくださる福音とは、一日の最後にぶどう園へ来たため、わずかな時間しか働かなかった労働者にも、ほかの労働者と同じ一デナリの賃金をお与えになる、一方的で驚くべき慈しみです。しかし、人間的な功労主義に陥ったユダヤの選民たちは、自分たちの既得権と、割礼という外形的な行いを誇り、すべての人に等しく与えられる恵みに不平をこぼしました。
このローマ書の説教に耳を傾け、聖書を黙想する中で示される深い神学的洞察とは、自ら築き上げた行いの塔によって、神に借りを負わせようとする時、福音の真の栄光は覆い隠されてしまうという事実です。救いとは、人間が働いて勝ち取る「報酬」ではありません。ただ恵みのみ(Sola Gratia)、ただ信仰のみ(Sola Fide)によって、私たちに与えられるものなのです。
罪の烙印から、神の所有を示す聖なる証印へ
それでは、アブラハムがのちに受けた割礼の真の意味とは何だったのでしょうか。パウロは、割礼が救いの条件だったのではなく、「無割礼のときに信仰によって得た義を確認するための印、すなわち証印(しるし、Seal)」であったと証言します。古代社会では、主人が自らの所有する奴隷や家畜の体に焼き印を押し、だれに属するものであるかを明らかにしました。また、牢に閉じ込められた囚人が、自らの名と人格を奪われ、胸に番号札をつけられて鎖につながれるように、私たちもまた、罪とサタンの力のもとで、真の自由と名を失った囚人の身分にあったのです。
しかしイエス・キリストは、十字架の上で、私たちのすべての罪状と刑罰が記された帳簿をご自身の御体に移し、ご自分のものとして引き受けてくださいました。そして、死刑の宣告を受けて当然の囚人であった私たちから、汚れた囚人服を脱がせ、清く輝く「義の衣」を価なしに着せてくださいました。これが、十字架の上で成し遂げられた聖なる贖いです。
日本オリベットアッセンブリーのすべての聖徒たちが日々告白しているとおり、私たちが救いの福音を聞き、キリストを主として受け入れるとき、聖霊なる神は私たちの魂に、「あなたはわたしのものである」という聖なる証印を押してくださいます。
私たちが受けるバプテスマや聖餐、さまざまな聖なる奉仕は、救いを得るための条件ではありません。それらは、すでに十字架の血潮によって価なしに受けた、あの計り知れない恵みと愛を、私たちの人生の中でより確かに告白し、証しするための聖なるしるしです。すでに受けた愛の深さを忘れたまま、形ばかりの儀式と宗教的な行いだけを誇るとき、信仰は生命力を失い、冷たく硬直してしまいます。
功績の残滓を払い落として経験する、いのちの回復
今日、多くの教会と信徒たちが霊的な活力を失い、扉を閉ざしていく根本的な理由は、いったいどこにあるのでしょうか。それは、教会が神の尊い恩寵を、人間の行いと功績への安っぽい誇りにすり替えてしまったからです。自分の献金、自分の奉仕、自分の長い信仰歴をひそかに誇りながら他者を裁く、律法主義といういばらの道には、温かな愛も、魂を生かす憐れみの心も、入り込む余地がありません。愛を失った律法主義の冷たい陰の下では、決して新しいいのちが生まれることはありません。
日本オリベットアッセンブリーをはじめ、世の荒波の中にあっても、ただ神の国を求めるすべての信仰共同体が取り戻すべき本質は、ただ一つです。それは、私のためにすべての罪の記録を背負い、十字架で死に、よみがえられたイエス・キリストの真実な恵みです。自らのあらゆる経歴と誇りをちりあくたのように投げ捨て、ただ十字架だけを握りしめたパウロのように、私たちもまた、自分の手の中に握りしめている取るに足らない功績の残滓を、手放さなければなりません。
私が義人だったからではなく、罪人であったときにこそ、まず私を愛し、義人と呼んでくださったあの驚くべき愛を、心で受け入れ、口で告白するとき(受容)、鎖につながれていた私たちの魂は、罪と死の法則から完全に解き放たれます。
日本オリベットアッセンブリーの兄弟姉妹たち、そしてこの文章を読んでくださるすべてのクリスチャンが、この十字架の転嫁の恵みによって心を熱くし、冷たく凍りついたこの時代の数え切れないほどの魂に、真の自由と安息を伝える聖なる福音の通り道として用いられますよう、心から願っております。
日本オリベットアッセンブリーとともに深く黙想する、ローマ人への手紙4章の講解。割礼と律法の行いを超...
日本オリベットアッセンブリーとともに深く黙想する、ローマ書4章の講解。アブラハムとダビデの生涯に現...
ローマ書3章の講解を通して、律法の行いではなく、ただ恵みと信仰の法則によってもたらされる救いの真理...
日本オリベットアッセンブリーと共に黙想するローマ書3章。律法の絶望を越え、十字架の血潮によって成し...
人間の内に隠された罪深い本性を掘り下げるローマ書3章9~20節の講解。日本オリベットアッセンブリーの...