2026年05月25日
日本オリベットアッセンブリーと共にみことばの深みを味わうローマ書コラム。現代人の心の奥深くに潜む、原因の分からない不安と孤独の実体を明らかにし、神の御怒りの下に置かれた悲劇的な現実の中で、何の条件もなく与えられる値なき恵みの世界へと立ち帰る、まことの救いの道を示します。
大理石の不夜城に隠された、ひび割れた仮面
まばゆい大理石の建造物が果てしなく立ち並び、地上のあらゆる富と権力が集中していた世界帝国の中心地、ローマ。そこは当時の人々にとって、人間文明の頂点であり、永遠に揺らぐことのない平和の象徴として君臨していました。しかし、その華やかな大通りの裏側で、息せき切って生きる群衆の魂は、果たして本当に満たされていたのでしょうか。初代教会の偉大な使徒パウロが、この巨大な世俗都市にある教会に向けて最初の手紙を書き始めたとき、彼はその繁栄の仮面を容赦なく剥ぎ取りました。「不義によって真理を阻んでいる人々の、あらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から現れています。」(ローマ1:18)という、実に衝撃的なみことばの一喝によって、ローマ書の本論を始めたのです。使徒は、人類が直面している霊的状況の核心を突き、正面から真理を突きつけます。
今日を生きる私たちもまた、高度に発達した科学文明と物質的豊かさという「現代のローマ」の中で生きています。多くの人は、「私は律法などなくても正しく生きられる人間であり、何の問題もない。この世はそれなりに美しく、平和にうまく回っている」と主張し、自分の内に潜む霊的な闇を必死に覆い隠そうとします。しかしそれは真の平和ではなく、いつか粉々に砕け散るほかない偽装された平和であり、かりそめの平穏にすぎません。人間は、自らの赤裸々な実体が白日の下にさらされることを極度に恐れるあまり、偽りの陰に身を隠すことを選びます。キリストが「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人です」と語られたように、自分が不完全な罪人であることを認めない者に、救いの処方箋が届く道はありません。だからこそパウロは、人間の耳を楽しませる甘い連帯の言葉を大胆に退け、人間の根本的な罪の病を直視させる厳粛な霊的真理によって、この壮大な手紙を書き始めたのです。膿んだ部分をためらうことなく切り開いてこそ癒やしが始まるように、救いは私たちの霊的破産を認める場所から出発します。
巨匠が捉えた光と闇、そして裂かれた関係性
オランダの悲劇的な巨匠レンブラントが晩年に描いた《使徒パウロ》という名画があります。薄暗い牢獄の片隅で、色あせた聖書の巻物と剣を手にし、深い黙想に沈む老いた使徒の姿は、世の目から見れば、ただ孤独でみすぼらしい一人の囚人にすぎないように見えます。しかしレンブラントは、その深い闇のただ中に、パウロの額と知性を静かに照らす、天上の栄光ある光を描き入れました。世がどれほどまばゆく輝いて見えたとしても、神を離れた魂は本質的に漆黒の暗闇(Darkness)の中にあり、土の器のようなキリスト者の内にこそ、永遠に朽ちることのない不滅の宝が宿っているという逆説的な真理が、この一枚のキャンバスに見事に表現されています。
私たちが「罪」と呼ぶものの本質は、単なる法的な違反や道徳的な過ちではありません。漢字の「罪」という字の構造を見ると、それは「網」を意味する部分と、「互いに背を向けた羽(非)」から成り立っています。すなわち、本来、親密に結ばれているべき創造主との関係の網が一つ一つ裂かれ、神と人間が互いに背を向けている「不和の状態」を意味します。パウロはこれを、神に向けられた垂直的な「不敬虔」と、隣人に向けられた水平的な「不義」という二つの軸によって鋭く告発しました。あらゆる道徳的不義という枝の罪は、その根にある、神を心に留めたくないという不敬虔から芽生えます。この根を抜かず、葉だけを整えようとしても、人間が救われることは決してありません。預言者イザヤが嘆いたように、牛はその飼い主を知り、ろばも主人の飼い葉桶を知っているのに、人間は自分を育まれた創造主を知らず、逆らうという、アイデンティティの喪失に陥っています。オリベットアッセンブリーが大切にしている深い聖書黙想の伝統の中で、私たちはまず、この破綻した関係性と向き合います。罪の深刻さを曖昧にしたまま、安価な救いを叫ぶことは欺きです。たとえ痛みと苦しみを伴うとしても、私たちはまず、神の聖なる御怒りの前に立つ自分たちの偽らざる実相を告白しなければなりません。
ロダンの前頭葉に刻まれた、消すことのできない神の刻印
では、神を信じないと主張する無神論者や現代の人間は、本当に神の存在を少しも知らずに生きているのでしょうか。パウロは、「神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神がそれを彼らに示されたのです。」(ローマ1:19)と断言します。近代彫刻の父、オーギュスト・ロダンの有名な傑作《考える人》を思い起こしてみてください。地獄の門の上で人間の実存に悩み沈む青銅像の人物は、指を鼻や顎ではなく、思考と精神をつかさどる「前頭葉」のあたりに強く当て、深い沈黙の中に沈んでいます。これは、動物にはなく、人間にのみ与えられた「理性」と「思索」という聖なる特権を象徴しています。人間がどれほど堕落し、罪に染まり、盲目的になったとしても、創造主がその存在の深淵に刻んでおかれた「神のかたち(Imago Dei)」である理性と自由意志、そして道徳的感覚は、決して完全には破壊されることなく、なお息づいています。
初代教会の教父テルトゥリアヌスは、「人間の魂は生まれながらにしてキリスト者である」という驚くべき宣言を残しました。ひまわりが教えられなくても太陽の方へ顔を向けるように、人間の魂は時空を超えて、本質的に神へと向かい、神を求めるように創造されているという意味です。若き日に放蕩と快楽の極みを歩んだ聖アウグスティヌスもまた、その有名な著書『告白』の中で、「神はすでに私の内に来ておられたのに、私は外に神を探していました。あなたの内に安らうまでは、私たちの魂にまことの平安はありません」と涙ながらに告白しました。現代人が日常的に経験する、原因の分からない慢性的な不安、孤独、絶望は、実は単なる精神の病ではありません。それは、神を失った罪責と欠乏の中で、まことの親である創造主を探し求めて泣き叫ぶ魂のもがきであり、霊的な渇きの証しなのです。幼子が母の不在をどのような金銀財宝によっても満たすことができないように、人間の心に刻まれた神の場所は、ただ神によってのみ満たされます。私たちはすでに、神を知りうる十分な光を内に与えられているのです。
条件なき父の懐へ、すべての重荷を下ろして
この世の偽りの宗教と律法主義の世界は、いつも人間に過酷な「条件」と行いの功績を求めます。「これを行えば神の愛を受ける資格が生まれる」「あの儀式を完全に成し遂げてこそ救いに至る」と教え、神へと進む道を塞いだまま、商人のように振る舞います。人間の肩に宗教的な重荷を負わせ、自分たちの教えに縛りつけようとする者たちとは異なり、イエス・キリストが宣べ伝えられた本当の福音の世界は、根本的に異なります。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と語られたみことばには、いかなる人間的な条件も、行いの代価も、資格審査もありません。恵みとは、金を払わず、値なしに来て、ぶどう酒と乳を買うように与えられる、無償の賜物です。私たちはただ、渇いたままに、砕かれ傷ついた姿のままに、生ける水の源である主のもとへ進み、心の扉を開いて飲みさえすればよいのです。パウロが語った信仰とは、まさにこの無条件の恵みを受け入れる受容性なのです。
ルカの福音書15章に登場する放蕩息子のたとえ(ルカ15:11-24)が示しているように、父は、私たちがなお罪の埃をかぶったまま、遠く離れた所にいたときから待っておられ、先に走り寄り、首を抱いて口づけし、何の条件もなく祝宴を開いてくださる愛の神です。過去の恥ずべき人生について、ただの一つも問いただされない、あわれみに満ちた父です。オリベットアッセンブリーが、この時代の教会と世の中で力を込めて証ししてきたメッセージもまた、この「値なしに、一方的に注がれる十字架の恵み」の力強い生命力です。神の御怒りという厳粛な霊的現実を避けることなく、自分が本来なら刑罰の下に置かれるべき罪人であることを骨身にしみて悟った者だけが、この無条件の愛の深さをまことに測り知ることができ、本来の姿を失った堕落の場所から抜け出して、まことの自分を取り戻すことができるのです。
私たちは今、神を心に留めることを嫌い、虚無と倦怠の中で罪を犯し、ただ自分の力だけで生き延びようとする暗い時代を通っています。しかし、私たちの魂が深い内面から本当に叫び求めている声に耳を傾けてみてください。魂のまことの安息と満たしは、ただ創造主との愛の交わりの中にのみあります。今こそ、オリベットアッセンブリーと共に、同じ信仰の歩みをなしつつ、私を欺いてきたすべての仮面をためらうことなく脱ぎ捨てましょう。そして、私の心の扉の外に立ち、今日も絶えず戸を叩いておられる主の御声に応答し、尽きることのない恵みの泉へと、喜びをもって立ち帰ろうではありませんか。
偽装された平和を裂いて迫り来る、その聖なる御怒りと愛の前に、私たちがへりくだって魂を委ねることができますように。そして、この救いの約束のみことばが、あなたの人生を支える永遠の原動力となり、あなたを通して、この福音の輝きが全世界へと広く満ちるように心より願います。
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