Olivet Assembly Japan

ディボーション

2026年06月09日

[ローマ書コラムシリーズ] 取り替えてしまった世界と聖なる遺棄:放置された欲情の果てに聞こえる憐れみの招き

日本オリベットアッセンブリーと共にみことばの深みを味わうローマ書講解コラム。神を見失った現代文明が直面している偶像礼拝と道徳的堕落の実相を考察し、神の聖なる遺棄が持つ悲しき事情と、それを克服する聖書の言葉中心のプロテスタンティズムの精神を明らかにします。

聖書本文 ローマ人への手紙 1章22〜26節
彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、
朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。
そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。
彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、

1.空っぽになった至聖所、「取り替えてしまった世界」の霊的破綻

人間にとって最も致命的な愚かさは、神を失ったとき、その魂の空白をそのままにしておくことができないという人間の本性にあります。人間は神から離れた瞬間、その絶対的な空席に、必ず別の何かを据え置いてしまう頑なな宗教性を持っています。新約聖書の書簡『ローマ人への手紙』を書いた使徒パウロは、人間の不敬虔は無神論に帰結するのではなく、必ず別の形の偶像礼拝を引き起こすと断言します。「私は決して偶像など拝んでいない」と自負する現代人もまた、生活の中心から神を押しのけたその場所に、自分も気づかぬうちに何かを神のように絶対化して仕えています。パウロはこれを、「朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました」と告発します。宇宙の創造主であられる偉大な栄光に比べれば、人間が造り出したすべての代替物は、まことに塵芥(ちりあくた)にすぎません。

当時、最高の文明を誇っていたローマ帝国は、逆説的にも、想像を絶する偶像礼拝によって魂が荒れ果てた都でした。使徒パウロがアテネに至ったときも、町全体に偶像が満ちているのを見ました。さらに、彼らが知性の限界の果てに「知られない神に」と刻んだ祭壇まで設けていたことを目撃しました。このように、人間は自らの知性と宗教性を総動員して、絶えず偶像を造り出します。今日の文明社会も、この霊的本質においては少しも進歩していません。多くの人々は、自分自身を含む人間、金銭(すなわち「マモン」)、権力、情欲、名誉を拝み、天体や自然万物を神格化しています。使徒の鋭い指摘のとおり、人間にとって最も尊いお方は神であり、被造物である人間は、創造主とともにあるとき最も幸いであるように造られました。しかし人類は、不敬虔のゆえに、栄光ある神の座を朽ちる被造物の形に取り替えてしまいました。そして、その「取り替えてしまった罪」の代価として、今まさに霊的破綻に直面しているのです。

神を知る知識を失うとき、人間は直ちに二つの本質的な危機に陥ります。第一は、真理を知らないという「無知の危機」であり、第二は、たとえ真理を知っていても神を礼拝しないという「礼拝の危機」です。偶像礼拝が恐ろしいのは、人間の魂を完全に誤らせ、錯覚させ、神へと進む霊的な道を根源から遮断してしまうからです。十戒の第一戒が、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」と厳命した理由がここにあります。本来の創造的な関係が歪められ、砕かれるとき、世界は混沌と罪悪の汚れに満ちるようになります。世のすべての道徳的崩壊と人間性の喪失は、結局のところ、人間が神を心に留めることを嫌い、真の主権者を見失ったことによって引き起こされた悲劇なのです。

2.プロテスタンティズムの本質、「見る主体」から「聞く器」へ

聖書信仰の絶対的な核心は、偶像を造らず、神を目に見える対象として枠にはめないことにあります。神は出エジプト記20章において、「自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形も造ってはならない」と厳かに命じられました。なぜ神は、いかなるイメージによってもご自身を表現することをお許しにならなかったのでしょうか。神が人間の視覚と理性によって特定の形に押し込められる瞬間、それはもはや、自ら存在される超越者なる神、「わたしは『わたしはある』という者である」という生ける神ではなくなるからです。神が特定のイメージに限定されるとき、神の真理が歪められるだけでなく、それを信じる人間の歩みもまた、必然的に歪められてしまいます。

ここにこそ、プロテスタンティズムと、私たち改革教会の気高い精神があります。改革教会の核心は、教会が聖書にない人間の言い伝えや、目に見える形を付け加えないことにあります。したがって、プロテスタンティズムの根本は、「御言葉の神」を信じることです。伝道者の書5章2節は警告しています。神の前で軽々しく口を開かず、心せいて言葉を出してはならない。神は天におられ、人は地にいるのだ。だから言葉を少なくせよ、と。人間が言葉を少なくしなければならない理由はただ一つ、絶対主権者であられる神の御言葉を「聞かなければならない」からです。信仰は聞くことから始まり、聞くということは、私が神の御前に徹底してへりくだり、その御言葉を受け入れる器となることを意味します。

現代の風潮の中で、自己の主体性だけを極端に主張する人々は、「なぜ私たちが従わなければならないのか。なぜあなたたちは、私たちに何かを聞けと言うのか」と反発します。彼らは聖書の教える「従順」を奴隷の従属のように誤解し、息苦しさを感じます。しかしその根底には、神よりも自分を高く置きたいという高慢があります。福音書の出来事を見てください。イエスが、いちじく桑の木に登った取税人ザアカイをご覧になったとき、「ザアカイ、急いで降りて来なさい」と命じられました。ザアカイが主にお会いするには、まず自分の高い場所から降りて来て、主の御声を聞かなければなりませんでした。「見る」ということは、私が主体となって相手を支配しようとする試みですが、「聞く」ということは、私がへりくだり、相手の権威の前に立つことです。私たちは神を視覚的なイメージとして見て出会うのではなく、目に見えないいのちのパンである御言葉を聞くことを通して出会います。形を拒み、ただ啓示された御言葉だけを握りしめること。それこそが、改革教会が命懸けで守り抜いてきた誇り高き霊的アイデンティティなのです。

3.魔法のランプの魔神が教えてくれた「自由と愛の神秘」

ローマ人への手紙1章24節を読むたびに、私たちの魂の深いところには、言い尽くせない霊的な悲しみが押し寄せてきます。使徒パウロは、神が彼らをその心の欲望のままに汚れへと引き渡された、と証ししています。この「引き渡された」という言葉の背後には、神の深い嘆きと、張り裂けんばかりの御心が込められています。本来、神と人間は互いを内包する、断ち切ることのできない関係にありました。しかし人間が神を心に留めることを嫌い、遠ざかろうとするとき、全能の神はなぜ圧倒的な力によって人間を制圧なさらないのでしょうか。それは、真実な愛というものが、ただ「全き自由」の上においてのみ成り立つからです。

東方の古典『千夜一夜物語』の中にある、アラジンと魔法のランプの物語は、この世界の深い真理を比喩的に示しています。ランプの魔神は、アラジンのために黄金を生み出し、華麗な王宮を建てるほどの絶大な能力を持っていました。しかし、アラジンが王女を愛し、「あの王女が私を愛するようにしてほしい」と求めたとき、魔神は「それだけは決してできない」と拒みます。人間の心を強制的に操り、無理やり愛させることは、真の意味での愛ではないからです。死者を生かされる全知全能の神であっても、人間を強制してご自身を礼拝させることはなさいません。力や金銭、恐怖によって屈服させた愛は、偽りにすぎないことを、神はとてもよくご存じだからです。

最最も完全な愛の姿は、相手が自分を拒み、憎むとしても、なおその相手を愛し抜くところにあります。親が子を育てるとき、子が親の懐を離れて遠ざかろうとするからといって、力でねじ伏せたり、金銭で懐柔したりすることはできません。真実の愛は、自らが痛みを引き受けてでも、相手の自由を尊重するものです。神を離れた人間は、結局、欲情の奴隷となり、物質的貪欲というマモンや、淫らな欲望というバアルを追って、狂ったように生きていきます。イスラエルの歴史の中で、彼らを最後まで苦しめた二つの偶像、すなわち物質的貪欲である「マモン」と、淫乱と不倫の神である「バアル」は、今日も取税人と遊女の姿をとって、私たちのそばに依然として存在しています。愛すれば愛するほど人間がさらに遠ざかっていくとき、忍耐深い神が選ばれた最後の処方は、ほかでもない「なすがままに任せること」でした。捨て置かれるという遺棄こそ、被造物が迎え得る最も惨めな霊的孤独であり、恐るべき裁きなのです。

4.壊れたブレーキと祭壇の炭火が成し遂げるきよめの御業

パウロがローマ人への手紙1章26節で、もう一度強調する神の「引き渡し」は、神学的には「遺棄」と呼ばれる恐ろしい状態です。霊的世界には、罪が魂に蓄積していくという恐るべき法則が働いています。罪は時間が過ぎれば自然に消えるものではなく、人間の内側に一つひとつ積み重なり、こびりついていきます。私たちが眠りを取らなければ疲労が蓄積し、ついには全身が慢性的な病に蝕まれるように、悔い改められていない罪は、魂に悪しき習慣を形成し、人間を完全な滅びへと追いやっていきます。

最初に罪を犯すとき、人間の魂は激しい罪責感と不安に苦しめられます。どのような人間も、本質的には罪の中で苦しむことを望んではいないからです。しかし罪を繰り返していくと、魂は次第に鈍くなり、ついには良心に焼き印を押された者のように麻痺してしまいます。これこそが、小さな罪がやがて魂全体を滅ぼす過程であり、ブレーキが完全に壊れ、どれほどペダルを踏んでも止まらず、崖へ向かって疾走する自動車の状態と同じです。欲望の奴隷となった人間が、自らの力で立ち返ることは、ほとんど不可能です。神が数多くの警告と怒りのしるしを示してくださるにもかかわらず、最後まで心をかたくなにし続けるとき、神はついに御顔を背け、その者が望む滅びの道へ進むままにしておかれます。

それゆえ、キリスト教的人間論の核心は、私たちの内に刻まれた「神のかたち」という霊的な尊厳から出発しなければなりません。たとえ罪に満ちた存在であっても、私たちの深い内面には、神を慕い、その方のもとへ帰りたいと願う聖なる渇望が残されています。神の憐れみと赦しは、まさにこの御心に基づいています。アダムが罪を犯して身を隠したときも、カインがアベルを殺して恐れに震えていたときも、神はみこころに背いて苦しむ彼らのもとへ先に来られ、「あなたはどこにいるのか」と問われました。

私たちがこの遺棄の暗闇から抜け出すには、徹底したきよめの御業が不可欠です。テモテへの手紙第二2章の御言葉のように、大きな家には、金の器、銀の器、木の器、土の器など、さまざまな用途の器があります。しかし、主人の用にふさわしい者となるためのただ一つの前提条件は、「自分自身をきよめること」です。すべての霊的回復と悔い改めは、きよめの歩みから始まります。預言者イザヤが万軍の主を仰ぎ見たとき、「ああ、私は滅んでしまう。私は唇の汚れた者であり」と告白しました。そのとき、セラフィムが祭壇の炭火を彼の口に触れさせ、彼の咎を取り除いたように、祈りは私たちの魂を焼き、洗い清める聖なるきよめのささげ物なのです。

5.十字架の和解、帝国に打ち勝つ福音の偉大さ

パウロは、罪悪が満ちあふれた世の中で、すべての人が神に逆らい、神を亡き者にしようと酔いしれていたとき、ただ自分だけは神を永遠にほめたたえ、礼拝すると涙ながらに告白しています。ローマ人への手紙1章25節に示されるこの告白は、人類の反逆の中で、ノア一人を通して慰めを受けられた神の御心に、もう一度深い喜びをささげるものです。本質的には御怒りを受けるべき子であった私たちが、どうしてこのような恵みの座に近づくことができるようになったのでしょうか。

エペソ人への手紙2章が宣言するように、キリストが成し遂げられた御業の核心は、聖なる「和解」です。主はまず、ユダヤ人と異邦人との間に立ちはだかっていた敵意の隔ての壁を打ち壊し、ご自身のからだを隅のかしら石として、新しい霊の家を建てられました。さらに、私たちが神の敵であったとき、十字架の血によって、神と私たちとの間にあった隔ての壁を完全に打ち壊してくださいました。律法の世界は、罪を犯せば必ず死ななければならないという厳格な因果律に支配されています。しかし、イエス・キリストは律法を廃棄するために来られたのではなく、成就するために来られたのであり、十字架という偉大な愛と赦しの法則を私たちに示してくださいました。ユダヤ人たちは、無条件の赦しが人間をより大きな放縦へと追いやると非難しました。しかし使徒パウロは、その計り知れない血の代価による恵みと憐れみを経験した者こそ、愛の力に捕らえられ、もはや再び罪を犯さなくなるのだと力説します。だからといって、主の律法が放縦を容認するわけではありません。主は、右の目が罪を犯させるならえぐり出せと言われ、小さい者をつまずかせるなら、石臼を首に掛けられて海に沈められるほうがよいと言われるほど、罪に対して徹底しておられました。この公義と愛が完全に交差する場所、それこそが、御子をなだめの供え物として差し出された十字架なのです。

当時、パウロがこの手紙を送ったローマ帝国は、性的堕落が極みに達し、同性愛と無秩序な情欲が文化という名のもとに称賛されていた、巨大な闇の地でした。絶対的な帝国の威容を前に、少数のキリスト者たちは、限りなく萎縮し、ただ一人で歩いているかのような孤独を感じていたことでしょう。しかしパウロは、帝国の巨大な壁に向かって、「私は福音を恥としません。福音は、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です(ローマ人への手紙1章16節)」と高らかに宣言しました。パウロはローマに向かって、人間的な啓蒙思想や哲学的な解決策を提示したのではありません。ただ彼らに緊急に必要なのは、罪からの「救い」であることを見抜いていたのです。

私たちは今日、どの場所に立っているのでしょうか。私たちもまた、本質的には御怒りを受けるべき子でした。しかし、キリストの十字架の恵みによって、聖なる救いの民とされました。出エジプト記20章の宣言のように、私たちの神は「ねたむ神」です。このねたみは醜い執着ではなく、ご自身のすべてを与え尽くすほどに私たちを愛される、完全な愛のもう一つの名です。この偉大な愛を拒み、自ら滅びの遺棄へと向かう愚かな道から立ち返り、主が血をもって買い取られた教会の子どもらしく、自分自身をきよく砕いてまいりましょう。この美しい福音の光を携え、地の果てに向かって大胆に進みゆくキリストの良き兵士となられる貴方を、主の御名によって祝福いたします。

みことばに対する応答の祈り

恵み深い父なる神様。私たちの内に、主を知り得る霊的な悟りと、主を慕い求める心を植えてくださったにもかかわらず、私たちは神を遠ざけ、その聖なる場所を朽ちる偶像と情欲に取り替えてしまったことを告白いたします。自らを知恵ある者としながら愚かになり、神の御怒りの下にとどまるほかなかった私たちの悲惨な実相を、みことばの鋭い光を通して直視いたします。

ああ主よ、永遠の死に定められるべき私たちを孤児のように捨て置かず、独り子イエス・キリストの尊い血によって、神と私たちとの間にあった隔ての壁を打ち壊してくださり、感謝いたします。今や、情欲の奴隷となった生活を清算させ、祭壇の炭火によって私たちの唇と心をきよめ、主の御用にふさわしい清い器とならせてください。巨大な世の壁を前にしても、ただ福音だけを誇り、まことの礼拝者として永遠に主だけをほめたたえる聖なる歩みをなさせてください。私たちを救ってくださったイエス・キリストの聖なる御名によってお祈りいたします。アーメン。

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